コラム
アナログ放送をアップデートする、GNSS時刻同期技術

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1964東京五輪でのエピソード

「世界中の秋晴れを、ぜんぶ東京に持ってきてしまったような」と実況アナウンサーが伝えた、1964年の東京オリンピック開会式。
運営に関わる方々の準備の努力は凄まじいものだったと伝えられています。筆者は当時まだ生まれていませんでしたが、後年、スタジアムの音響設備に関わったエンジニアから、興味深いエピソードを伺ったことがあります。

「スピーチ台に立つVIPの耳に、スピーカーからの戻り音がかなり遅れて入ってくることで、ひじょうにしゃべりづらくなる。それを避けようと、複数のスピーカーから逆相で音を送出する方法も検討してみた。マイク位置でちょうど打ち消し合うように調整できるのではないか――。」
ヘッドフォンやイヤホンのノイズキャンセリングは、マイクで集音した環境音をソースに、位相反転と振幅調整を行ったうえで耳孔に送り込み、ちょうど鼓膜の位置でノイズだけを打ち消そうとするものです。
昔の国立競技場で検討されたアイデアもそれに似たもので、2つのスピーカーから等距離の場所でのみ、無音エリアを生み出そうという試みでした。ノイキャンというよりは、スタジアムサイズのエコーキャンセリングシステムのようなものでしょうか。

ただ、結果としてこの手法は採用されませんでした。「開会宣言の天皇陛下に逆相の音をお聞かせしてよいのか」という声もあったとか、なかったとか。ともあれ、不採用の理由は容易に想像できます。
まず、競技場内の構造物による複雑な反射音で、想定どおりのエコーキャンセルがかなり困難だったと思われる点です。また、かりにマイク位置でエコーキャンセルが実現していたとしても、それ以外のエリア、すなわちほぼスタジアム全域で、位相ズレにより聞くに耐えない音質となっていたに違いありません。これはすなわち、広い競技場内にくまなくメッセージを届けるという音響設備の本来の役割が果たせない、ということになるからです。

記録映像では自衛隊のブルーインパルスが大空に五つの大輪を描き、開会式は無事に終了しています。スタジアム規模でのノイズキャンセリングの検討エピソードは、運営に関わる多くの分野で、あきれるほど細かいところまで準備と検討が行われたことを実感させてくれる証言だったと言えるでしょう。

FM放送で生まれた技術革新

話を現代に戻しましょう。無線通信の世界でも、ノイズや音質劣化を避ける対策は欠かせないものです。電波は同じ空間を共有することになるため、異なる周波数を使い、出力や電波発射のタイミングなどを適宜管理するのが基本です。
広いエリアに電波を届ける「放送」の分野でも、送信局ごとに異なる周波数(チャンネル)を利用してきました。これは常識以前の前提にも思えます。しかし、それを覆す「複数の送信局から同じ周波数で電波を発射する」という手法が、オールドメディアと呼ばれるFM放送の世界で浸透しつつあります。「FM-SFN(シングル・フリークエンシー・ネットワーク)」と呼ばれるものです。デジタルではなくアナログ放送で、同一周波数を利用するというところがミソです。

この仕組みを最初に本格的に取り入れたのは、山口県の民放局、KRY山口放送でした。平野が少なく低い山地に覆われた地理条件から、1本の高いアンテナ塔で全県をカバーするわけにはいきません。比較的見晴らしのいい場所に送信局を複数設置し、隣接する送信局の干渉を避けるため周波数を変えて放送する、という運用が、かつては必要でした。こうなるとクルマなどで移動しながら聴く場合、聴取者はエリアをまたぐたび周波数を変更しなければなりません。面倒このうえないだけでなく、たくさんの周波数(限りある資源でもあります)が必要となります。こうしたデメリットを一気に解消するのがFM-SFNでした。現在同放送局では、日本海側と瀬戸内海側でそれぞれ1つの周波数を使うのみで、全県をカバーしています。その鍵はGNSS時刻同期にありました。

GNSSという共通の時計を使用

技術の核心は、異なる局設備の間で高度な時刻同期を行う点にあります。それも単に複数局で送信タイミングを同一に揃えるのではなく、局ごとに異なる遅延量を加え送信する点がキモです。どういうことか説明しましょう。
たとえばA局とB局が同じ周波数で同じプログラムを放送する場合、両方の電波が重なり合うエリアで起こる事象は次の3つに分類できます。

ケース1. 同じ強さと同じタイミングで電波が届く場合
ケース2. 異なる強さ、異なるタイミングで電波が届く場合
ケース3. 同じ強さで、異なるタイミングで電波が届く場合

ケース1では、受信機は2局を区別することができないので、むしろ問題なく受信できます。
ケース2でも、FM受信機は電波が強いほうを優先して受信し、弱いほうを抑圧(無視)する特性があるため、問題は生じません。
問題はケース3となるエリアです。地形など伝搬条件がまちまちなので、距離は違っても電波の強さが同等になることはあり得ます。この場合受信機は、A局とB局からの信号を区別できないので、タイミングがズレたまま混ざりあった信号を再生することになり、音質は極端に悪化します。

【左:ケース3】著しく音質が劣化するのは、電波の強さが同等で、かつ到達時間差のあるエリア(赤色エリア)。【右:ケース1】そのエリアに近いB局からの送信タイミングに適切な遅延を加えることで、時間差を解消し劣化を抑制(緑色エリア)。タイミング調整のみなのでその他のエリア(ケース2)には影響が及ばない。図:FM同期放送システムのエリア模式図(総務省資料などをもとに作成)

現実には、2局がカバーする地域のほとんどがエリア2となり、同じ強さで電波の届くエリアがケース1(同じタイミング)となるか、ケース3(異なるタイミング)となるかの、どちらかになります。後者は、例えてみればかつての国立競技場の客席で、逆位相と反響音が混ざり合う場内アナウンスを聞かされる場合に似ていたかもしれません。耐え難い音質を回避する対策が、どうしても必要です。

FM-SFNでは、2局からの電波送出のタイミングを積極的に変えることで、ケース3のエリアに同じタイミングで電波が届くよう調整します。それにより、ケース3のエリアは、ケース1のエリアに塗り替えられることになります。
また、そもそもの電波の強さは変えていないため、従来のケース2のエリアは「異なる強さで異なるタイミング」のままです。2局の電波が重なるエリアの全域が、ケース1またはケース2のエリアとなり、良好な受信が可能となるわけです。

ただこのためには厳密なタイミングの管理が求められます。電波の速さは秒速約30万km、1マイクロ秒(100万分の1秒)で約300m進みます。これを下回る100ナノ秒~10ナノ秒オーダーでのタイミング調整がFM-SFNのキモとなります。それを実現するのがGNSS時刻同期です。空が開けた場所ならばどこでも正確な時刻が取得できます。デジタル放送やデジタル通信同様、このタイミング情報が容易に取得できるという前提のもと、アナログのFM-SFNは構築されたといっていいでしょう。

周波数の精密なコントロールもGNSSで

ただ、GNSS時刻同期という資源がありさえすればかんたんに同期放送が実現するというものでもありません。それを活用するためのさまざまな道具建てが必要でした。
たとえば、A局とB局の電波送出のタイミングを合わせるには、その時間差を正確に把握する必要があります。地図上でおおまかなところまでは掴めても、厳密なタイミング調整のためには現地での正確な計測が必要です。

そして、ここで問題となるのがA局とB局がそもそも「同じ周波数を使っている」という点です。A局とB局を別々に受信して比較したくとも、周波数が同じで電波の強さも同等ですから、指向性の鋭いアンテナを使うなどしても区別が難しくなっています。これはアナログ放送ならではの難しさとも言えるでしょう。

そこで使われるテクニックの一つが、A局とB局からの送信周波数を、わずかだけ変える手法です。放送局に限らず電波を発射する際には決められた周波数を守る必要があり、この種の放送では「周波数の許容偏差:20ppm以下」とルールが定められています。
そもそも周波数とは1秒間に何回変化したかを表す数値で、その単位「Hz」は無次元数である回数を時間で割ったものですから時間の逆数(1/秒)となります。これが意味することの一つは「より正確な時間が手に入れば、より正確な周波数調整が実現する」ということでもあります。

送信局では、GNSS受信機が出力する正確な基準周波数をもとに周波数の調整を行うことで、許容偏差の範囲内で送信周波数を変えることができます。許容偏差の範囲内ですから、音声品質に影響を与えることもありません。つまり一般の受信機を使う聴取者に気づかれることなく、A局とB局を分離しての測定・計測が可能となります。もちろんこの測定器にも、時刻同期のためのGNSS受信機が搭載され、正確な周波数同期を実現させています。
また、送出タイミングの調整と並ぶコア技術が、各送信局がそれぞれ独立に音声変調(*)を行っている点です。もちろんここでもGNSS時刻同期による1PPS(1秒ごとのパルス信号)信号を使った同期が行われています。

GNSSによる時刻同期や基準周波数という共通の資源を活用するためのツールや手法を整えたうえで、FM-SFNのシステム構築と継続的な品質維持が実現しています。さらにそのツールや手法を応用することで、FMコミュニティ放送局の強靭化や、トンネル内再放送設備の革新など、防災・安全に関わる分野での成果も生まれつつあります。こちらについては項を改めてご紹介したいと思います。

(*) FM放送では、19kHzのパイロット信号を使って音声変調(音声信号を電波で送りやすい信号に加工する)を行っています。このパイロット信号の位相の一致度が同期放送の音声品質に大きく影響します。

測量やナビゲーション分野におけるGNSS受信機はいわば、空間に描かれた見えないマス目を読み取るツールとして使われています。そこで得られる座標値の精度と確度と即時性が向上することで「ドローン物流」や「空飛ぶクルマ」といった新たなアプリケーションが生まれつつあります。
情報ネットワーク、とくに無線通信分野においても、GNSSによる時刻同期は携帯電話ネットワークや地デジ放送など、デジタル無線の普及に欠かせない役割を果たしてきましたが、さらにアナログ放送の革新にもつながったという点が、ご紹介した事例の興味深い点ではないでしょうか。

記事のライター

喜多 充成氏

喜多 充成   科学技術ライター

1964年石川県生まれ。産業技術や先端技術・宇宙開発についての取材経験をもとに、子供からシニアまでを対象に難解なテーマを面白く解きほぐして伝えることに情熱を燃やす。宇宙航空研究開発機構機関誌「JAXA's」編集委員(2009-2014)。著書・共著書に『あなたにもミエル化? ~世間のなりたちを工学の視点から~』(幻冬舎mc)、『私たちの「はやぶさ」その時管制室で、彼らは何を思い、どう動いたか』(毎日新聞社)、『東京大学第二工学部70周年記念誌 工学の曙を支えた技術者達』(東京大学生産技術研究所)ほか。

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